お笑い集団「たけし軍団」のメンバーで、タレント・ミュージシャンのグレート義太夫(本名・鈴木正之)さんが、2026年9月7日、67歳で亡くなりました。所属事務所が9月8日に公式サイトで発表しました。
東京・中野区の自宅マンションの階段で倒れているのが見つかり、搬送先の病院で死亡が確認されたと報じられています。1980〜90年代に『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』や『たけしの元気が出るテレビ!!』などで茶の間に親しまれた顔だっただけに、驚きと寂しさが広がっています。

この記事では、事務所発表の内容、亡くなった当日の経緯、たけし軍団に入るまでの歩み、代表的な出演番組、そして1995年に公表した糖尿病と、20年近く続けてきた人工透析との闘いまで、いまわかっている範囲で整理します。訃報という性質上、故人への哀悼を第一に、落ち着いた筆致でお伝えします。
グレート義太夫さんの訃報|事務所発表の内容は?
まず、何が起きたのかを整理します。所属事務所は9月8日、公式サイトで「弊社所属タレント グレート義太夫は、2026年9月7日、満67歳をもって永眠いたしました」と発表しました。
葬儀についてはご遺族の意向により、近親者のみで執り行う予定だと説明されています。死因は現時点で公表されていません。自宅で亡くなったため警察による検視が行われ、死因を特定したうえで改めて発表される見通しだと報じられています(出典:ORICON NEWS、日刊スポーツ)。
訃報の一報は9月7日の夜から一部で伝わり、8日朝に事務所が正式に認めた形です。「たけし軍団の義太夫さんが」という言葉に、リアルタイムであの時代のバラエティを見ていた世代ほど、胸に来るものがあったはずです。
亡くなった当日の経緯|階段で座り込む姿で発見
同じ事務所に所属する江口ともみさんが、9月8日の情報番組の生放送で、涙をこらえながら発見の経緯を明かしました。
それによると、義太夫さんは知人に「片付けを手伝ってほしい」と電話をかけていて、その約1時間後にその知人が自宅を訪ねたところ、マンションの階段で座り込んでいる義太夫さんを見つけたとのことです。第一発見者は、ビートたけしさんの元弟子で、義太夫さんとも長く親しくしていた人物だと伝えられています。
自宅は4階で、建物にエレベーターがなく、義太夫さんはふだんから階段で上り下りしていたといいます。亡くなる直前まで人と連絡を取り合い、日常のなかで倒れたという経緯に、やりきれなさを感じる方も多いのではないでしょうか(出典:日刊スポーツ、デイリースポーツ)。
個人的には、この「1時間前まで普通に電話していた」という事実こそ、透析を続けながら仕事と生活を回してきた義太夫さんらしい最期だったようにも思えて、言葉に詰まりました。
たけし軍団に入るまで|ドラマー志望からビートたけしの弟子へ
グレート義太夫さんは1958年12月26日、東京都板橋区の生まれ。京華高校を卒業後、亜細亜大学に進みますが中退しています。
もともとはお笑いではなく音楽の人でした。大学時代からドラマーとして活動し、プロのミュージシャンを目指してバンドを組んでいたといいます。
転機は『ビートたけしのオールナイトニッポン』でした。熱心なリスナーだった義太夫さんは、たけしさんに弟子入りを志願。その際に「ドラムが得意」だと伝えたことがきっかけで、当時のたけしさんのバックバンドに加入します。
そして、たけし軍団が8人編成から10人編成へと大きくなるタイミングで、井手らっきょさんとともに正式にたけし軍団の一員となりました。芸名の「義太夫」は、いかにも“たけし軍団”らしい大仰なネーミングですが、その裏にはドラムスティックを握っていた青年時代があったわけです。

「風雲!たけし城」「元気が出るテレビ」…代表的な出演番組は?
たけし軍団の一員として、義太夫さんは数多くのバラエティ番組に出演しました。代表的なものを挙げます。
- 『オレたちひょうきん族』……フジテレビの伝説的お笑い番組。軍団総出で場を回した
- 『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』……アトラクションに挑む攻め手として登場。海外でも再放送され根強い人気がある
- 『たけしの元気が出るテレビ!!』……街ロケや名物コーナーで存在感を見せた
- 『スーパーJOCKEY』『北野ファンクラブ』……たけしさんの冠番組の常連だった
お笑いだけでなく、ギター漫談や落語にも取り組み、ミュージシャンとしてもステージに立ち続けました。ビートたけしさんの楽曲制作に関わったり、映画『浅草キッド』の制作時に助言をしたりと、“たけし作品”を陰で支える役回りも担っていたと伝えられています。
「バラエティで見た顔」という記憶が強い方が多いと思いますが、本人の軸はいつも音楽と舞台にあった——そう考えると、義太夫さんの活動の幅広さがよくわかります。
1995年から公表した糖尿病、20年近い人工透析との闘い
義太夫さんを語るうえで欠かせないのが、病気とのつき合い方です。
1995年、36歳のときに糖尿病と診断されます。そして2007年には、糖尿病性腎症による末期腎不全を発症して緊急入院し、人工透析の治療を始めました。以来、亡くなるまで20年近く、週に3回の透析を続けながら仕事をしていたことになります。
義太夫さんは、この闘病を隠しませんでした。2009年にはエッセイ『糖尿だよ、おっ母さん!』を出版。ブログやSNSでも、透析のリアルな日常や食事管理の大変さ、体調の波を率直に発信し続けました。
「透析を受けている人でも、こうやって働けるし笑える」という姿を見せ続けたことは、同じ病気を抱える人にとって大きな支えだったはずです。個人的には、義太夫さんの後半生は“たけし軍団の義太夫”であると同時に、“透析を語り続けた当事者”としての意味がとても大きかったと思います。
世間の反応|「たけし城で見ていた」世代からの追悼
訃報を受け、SNSには「風雲!たけし城で見ていた」「元気が出るテレビの義太夫さんだ」といった、子ども時代の記憶と結びついた追悼の声が数多く投稿されています。
同じ事務所の江口ともみさんが生放送で涙を見せたことも、義太夫さんが現場でどれだけ慕われていたかを物語っています。ビートたけしさんや軍団メンバーからのコメントは、この記事を書いている時点ではまだ多くが伝えられていませんが、今後、追悼の言葉が続くとみられます。
考察|「たけし軍団」という時代を体現した一人
ここからは私の見方です。
グレート義太夫さんは、いわゆる“ピン”で大ブレイクしたタレントではありません。けれど、たけし軍団という集団があの時代のテレビをどれだけ賑やかにしていたか、その空気を思い出すとき、義太夫さんの顔は必ず浮かびます。主役ではないけれど、いないと画がしまらない——そういう得がたい存在でした。
もう一つ大きいのは、病気の公表です。芸能人が持病、とくに透析のような治療を明かすことには勇気がいります。義太夫さんはそれを20年近く、あっけらかんと、しかし誠実に発信し続けました。闘病を「暗い話」で終わらせず、生活の一部として見せてくれたことは、これから改めて語られていくと思います。
今後は、たけし軍団メンバーやビートたけしさんの言葉、そして正式な死因の発表が待たれます。ただ、それ以上に大切なのは、残された番組や著書を通じて、義太夫さんが遺したものに触れられるということではないでしょうか。

まとめ
たけし軍団のグレート義太夫さんが、2026年9月7日に67歳で亡くなりました。東京・中野区の自宅マンションの階段で倒れているのが見つかり、亡くなる約1時間前まで知人と電話をしていたと伝えられています。
ドラマー志望からビートたけしさんの弟子となり、『風雲!たけし城』『元気が出るテレビ』などで茶の間に親しまれました。1995年に糖尿病を公表し、2007年からは人工透析を受けながら、闘病のリアルを発信し続けた人でもありました。心よりご冥福をお祈りいたします。
よくある質問
グレート義太夫さんの本名と年齢は?
本名は鈴木正之(すずき まさゆき)さんで、1958年12月26日生まれの67歳でした。東京都板橋区の出身です。
いつ、どこで亡くなったのですか?
2026年9月7日、東京・中野区の自宅マンションの階段で倒れているのが見つかり、搬送先の病院で死亡が確認されたと報じられています。死因は現時点で公表されておらず、検視のうえ改めて発表される見通しです。
どんな番組に出ていた人ですか?
たけし軍団の一員として『オレたちひょうきん族』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『たけしの元気が出るテレビ!!』『スーパーJOCKEY』などに出演しました。ミュージシャンやギター漫談、落語でも活動していました。
病気について公表していたのですか?
はい。1995年に糖尿病と診断され、2007年からは人工透析を開始。エッセイ『糖尿だよ、おっ母さん!』の出版やブログ・SNSで、透析治療の日常を率直に発信し続けていました。



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